先行世代が伝え損なった家族の姿
〜絵本フォーラム第67号(2009年11.10)より〜

「未来に何を伝え残したいですか?」

藤井 勇市(「絵本講師・養成講座」講師)

 皆さん、こんにちは。
 今日は、「絵本の力・絵本の可能性」と題しまして 2時間ほどお話させていただきます。

 皆さんのお手元に本日のレジュメが配布されていると思います。そのレジュメ通りにお話をすすめますと 5時間くらいの時間を必要としますので、最初のほうは少し端折ってお話させていただきます。端折りますと、話の中身が、こちらが想定しているように伝わらないことがございますが、そういうところはどうかご容赦いただきたいと思います。
 それから、ちょうど今、午後 1時半くらいでしょうか。お昼をいただいて、ちょうどお腹の中で食物が消化されており、眠くなってくる時間です。
 私の話は、どうも睡眠誘発剤・睡眠剤の働きがあるようです。以前も種々の会議などで、「お前の話を聞いていると、すぐ眠くなる」、とよく苦情を言われたものです。多分、今日も眠くなる方がたくさんおられると思います。どうぞ、ご遠慮なくお眠りいただいて、時々目が覚めて、「まだ喋って」いたらお耳をお貸しください。

未来に繋がる子どもたちを守り育てているあなたへ

 実は今日、皆さんにお会いできることをとても楽しみにしておりました。現在、保育園や幼稚園にお子さんを通わせているお母(父)さん、それから保育園、幼稚園の先生方にお話のできるのを嬉しく思っています。
 なぜ嬉しいかといいますと、いま保育園、幼稚園の先生、それからお母(父)さんが目の前にいる子どもにしっかりと関わらないと、将来、子どもたちの世界にとんでもなく難儀な事態が引き起こされるのではないかと危惧するからです。
 その事態は、そんなに想像力を必要とすることではなく、今現在の子どもたちの生態といいますか、思考様式、行動形態を考えれば容易に想像できることです。
 予測しない難儀な事態に直面し、周章狼狽を繰り返すおろかな大人になっては、それこそ、あるかないかは別に大人の沽券にかかわります。
 子どもの成長過程のなかで、小学生になったら、あるいは中学生くらいから、「教えよう」「直そう」と思い立っても育たない部分があるということをしっかり認識しておく必要があると思うのです。
 それは後段で詳細にお話しますが、早期(語学)教育の中で言われる曖昧な「臨界期」のことではありません。「こころが育たない」という重要で深刻な問題が横たわっているのです。
 例えば少年、少女、大人たちによる短絡的な殺人事件が、まさに毎日のように起こっていますね。日本列島が殺人列島と化したような状態です。

 人はだれしも、人を憎く思ったり、逆にいとおしく思ったりします。憎んだり愛したりするという感情はごくごく自然のものです。真実、人を憎むことのできない人はまた、真実、人を愛することができない、という言い回しも世の中にはあります。
 人が憎くて殺してしまいたいというところまではいかなくても、ちょっと石でも投げてやろうか、ちょっと叩いてやろうかという感情はごくごく当たり前のものです。日常茶飯に生起する人間の感情です。
 ところが、そう思った途端にホームセンターに出刃包丁を買いに走る、あるいは机の引き出しからカッターナイフを持ち出してくる。子どもたちに、なぜこのような短絡が起こるのだろうか。「憎い」、「殺してしまいたい」と頭の中で思うことと、本気で包丁を買ってきて殺人行為に走るまでには、簡単に超えることのできない果てしなく広くて深い溝があるはずですね。
 その、「広くて、深い溝」を一足飛びに超えていく現代の子どもたちの行動はどうして起こるのだろうか。ここに現代社会が持っている病理が隠されているのではないでしょうか。
 それを、いとも容易(たやす)く飛び超えられる現代の子どもたちとは何なのか、と考えると、分かりきったことですが「心が育っていない」ということではないでしょうか。また、違う言葉で表現すれば、「考える力」を持っていない。すなわち、思考力が育っていないということではないでしょうか。
 更に、自己肯定感(自尊感情)の欠落も挙げなければなりません。この自己肯定感は思考力と密接な相補(連絡)の関係を持っています。
 つまり、思考力、自己肯定感というものは、その人間が獲得した言葉の数(物語)・ボキャブラリーの量、親(他者)から受けた愛情で構成されるものです。
 では、言葉を蓄える、心を育てるということは、どういうことなのかということについてお話したいと思います。
  レジュメにある「現代の子育て事情」、あるいは「少子・高齢社会の問題」、それから「メディアの弊害」、ここのところには非常に深刻な問題がたくさんありますが、これらの部分をお話しておりますと、多分、絵本のところには入れませんから、ここは簡単にスケッチ風にお話させてください。
  たいへん重要な部分ですが、簡単にお話しすることをご了承いただきたいと思います。

今と少し前の子育て環境の大きな違い

 レジュメの一番初めに書いてあります「子育て事情」の中では、テレビ・ビデオ世代が親となって子育てを始めました。この世代が育ってきた近代中期(産業社会から情報社会への移行期)の、この国の空気、風景が現代の子育てに決定的な影響を及ぼしていることを、最初に確認しておきたいと思います。
 このようなお話をしますと若いお母(父)さんからは、猛烈な反発がきます。
 「私は子どもの頃からずっとテレビ・ビデオを見て育ったが、普通だ」、というものです。本当に普通かどうかというのは定かではありませんが、そういって反発、抗議されます。また、「普通」という言葉は、この頃「差別」的な含意があると指摘される方も増えてきました。
 これから幾つかの事例を挙げますが、ここでは若いお母(父)さんを批判したり揶揄(やゆ)したりすることが目的ではありません。まず、ここのところはご了解いただきたいと思います。
 ただ、現実の社会のなかで、子どもの育ちにストレートに影響する環境(家庭、地域)という問題については、やはり我われは精確に知っておく必要があると思います。
 そのような意味でお話しますから、「私が責められている」「私のことを皮肉っている」とは、どうかとらないでいただきたいと思います。
 現在、社会では子育て支援の活動が保育園、幼稚園、地方自治体、あるいはボランティアなど、さまざまなところでさまざまな活動が行われ、子育て世代を助けています。
 ところが、少し前ですが、そのような活動、支援をすることが馬鹿らしくなってきた、という先行世代(子育て中の親の親世代)の声が聴こえてきました。私はそのような状況に対して少なからず危惧を抱いています。

見過ごされてしまった些細な日常生活

 なぜ、先行世代がそのような考え方を持ったのか。笑い話ではありませんが、こんなことを言っているのですね。 
 皆さんの中で「びっくり水」というものをご存知の方はちょっと手を挙げてください。手を挙げておられない方も、きっと知っていて手を挙げられていないと思っておきましょう。
 あるお母さんがテレビを見ていました。料理番組です。おいしい素麺の作り方をアナウンサーと料理人が賑やかに説明しています。その最後の段階にきて、料理人が「このように湯が弾けるように煮立ってきたら、すかさず『びっくり水』を入れてください。そうしましたら麺はほどよく芯をもって、おいしく茹で上がります」。
 それを聴いたお母さんは、今晩、ご主人のためにおいしいそうめんを作ろう、と考えました。優しいお母さんですね。お母さんは早速、行動に移ります。『びっくり水』の調達をしなければなりません。
 街のコンビニに駆け込んで「『びっくり水』をください。さっき、テレビの料理番組でしていたものを」。
 話している相手がそのテレビを観ていたかどうかは、この際、問題ではありません。コンビニの店員の方もさすがなもの、「一緒に探しましょう」と。たぶんそんなメーカーの水は置いていないと思うけど、一応、隅々まで探してみました。案の定、『びっくり水』はなく、「それならミネラル水にしたらいかがですか?」
 お母さんは、普通の水よりミネラルのほうが良いのではないか、とミネラル水を買って帰られました。
 《お母さんは、きっとおいしい素麺を作りご主人とお子さまに食べさせてあげたと思います》。

 次は、小児科のお医者さんのお話(憤慨)です。
 子どもに微熱があるため、お母さんは小児科を訪ねました。診察が終わり、お医者さんはお母さんに向かって「今、出したお薬は食後、白湯(さゆ)で飲ませてあげてください」と言いました。
 お母さんは、間、髪を入れずに「白湯って何ですか?薬局に行けば売っているのでしょうか?」。
 お医者さんは、吃驚仰天(びっくりぎょうてん)。吃驚しただけでなく大いに腹を立てました。
 白湯(さゆ)とは、水をいったん沸騰させた後、冷(さ)ました水のことをいいます。
 これらはたぶん「都市伝説」の類でしょうが、現代の子育て世代の「無知」(困った親)の典型例として広く伝わっています。
 このような報告・事例を聴いたり読んだりした先行世代は、「こんな常識も知らない世代を支援するなんて」、と呆れ、憤慨しているのです。
 私たちは、このような滑稽な「世代間断絶」をどのように考えたらいいのでしょうか。
 これは深く考えなくても明らかなように、そのようなことで子育て支援をしたくないと言っている方(世代)が間違っているのは歴然です。それは、「天に唾する」ことです。
 後で詳しく述べますが、現在、家庭というものは崩壊途上にあると思います。非常に乱暴に言ってしまえば、既に壊れてしまっています。
 ですから、家庭での生活文化の継承、あるいは、その他さまざまな身体的文化の学習というものが断絶してしまっています。
 そのことの欠落、不在を責めている先行世代の方がよほど無知だと言わなくてはなりません。困ったことに、その無知は我われの世代(団塊前後)なのです。その世代が無頓着に上のような言説を撒き散らしている。そういうことで子育て支援の手を緩めたり、支援を放棄したりしているという風潮に対して、私はたいへん危惧を持っています。教えてこなかった者の責任を、自らに問いかける度量をわれわれの世代は持たなければいけない、と思います。
 だから、若い世代に対して忠告(教育的)はしても場当たり的な非難は厳に慎むべきで、子育て支援には積極的に参加すべきであると考えています。

 それから、先ほど既に「家庭」が崩壊していると言いましたが、そこのところを簡単に説明したいと思います。
  現在の核家族というのは、父母がいて子どもたちがいる。どこのでもある一般的な家族構成です。この核家族の「形態」というのはそんなに長い歴史を持っていません。この国では、近代の幕開けともに奨励されてきた庶民の日常の暮らしの形態であるわけです。 1920年くらいから東京、名古屋などの大都市の主にサラリーマン家庭などが発祥なのです。祖父母というのは、当たり前ですが子どもの数だけいるわけがありません。ですから、父母と子どもという「核家族」が一般的な家庭になってきたのです。
 それから、まだ 100年も経過していない家族形態なのです。この形態を先ほども言いましたように「核家族」、別の学問分野の言葉で言えば「近代家族」と言っています。近代家族が発生したのは100年前、その近代家族である「核家族」が今、崩壊を始めてきたのです。

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