(編集部より) 
第 3回の原稿整理をしていましたら、「早期教育」業者やその関係者の“心胆を寒(さむ)からしめる”(かも知れない)ニュースが飛び込んできました。それは毎日新聞夕刊(2010年1月27日付、大阪本社版)の記事です。それによると、〈大脳神経細胞は「臨界期」後も発達する〉というものです。抄録します。《哺乳類の大脳の神経細胞が、外界からの刺激で大きく機能を変えることのできる生後直後の特別な時期「臨界期」の後でも、機能変化を起こすことを理化学研究所の津本忠治チームリーダー(神経科学)らが発見した。脳の成長の仕組みを見直す成果で、人間の早期教育論にも影響しそうだ。チームは臨界期中と臨界期後のマウスで目隠し実験をし、大脳皮質の視覚野で、ものの細部を見る役目を担う「興奮性細胞」と、輪郭をとらえる「抑制性細胞」の活動を個別に計測した。その結果、「大脳は臨界期後も一定の発達が可能ということを示せた。人間を含む他の動物や脳のほかの機能でも同様の仕組みがあるのではないか。臨界期を人間の早期教育の根拠とする意見もあるが、それを考え直す契機にもなるだろう」としている。【奧野敦史】》
早期教育を推奨する怪しげな「教材会社」や「教室」が街のいたるところに出現してきました。そのような教材会社や教室の宣伝文句は、子どもの脳細胞は 3歳までに決定する。ニューロンとかシナプスとか臨界期がどうのこうのと、お母さん方の日ごろあまり馴染みのない言葉を駆使して、母親の育児不安に襲いかかってきます。半ば脅迫的な思いで早期教育をしている方も多いと聞きます。
また、「 3歳神話」は、70年代の初めに、当時ソニーの社長であった井深大氏が出版した『幼稚園では遅すぎる』(1971年、ごま書房)の焼き直しのようなものです。
この本の出版は、折からの経済成長と軌を一にして一大早期教育ブームをもたらしたものでした。後年、その本で展開されていた理論は多くの人からの批判にさらされ、本人(井深氏)も反省の弁を述べています。《「幼児開発協会でいろいろやってみた結果、知的教育は言葉が分かってから、ゆっくりでよい、という結論になった。」》( 1990年4月28日付、朝日新聞夕刊)。
現代社会で粗末にされている言葉
早期教育業界の世界では、「臨界期」という言葉が多用されていました。ここでいう臨界期とは、「ある時期までに教育(教え込む)しなければ、それを後で取り返すことができない」と言われていることなのです。辞典的に言えば「物理的変化が起こる境目」です。
この臨界期と言う「脅し文句」が、お母さん方の育児不安に乗じて効果的につかわれてきました。現代では、この臨界期という言葉は、脳科学や教育心理学の分野ではつかわれなくなってきました。どちらかと言いますと「敏感期」が主流になっています。なぜかといいますと、現代の学問的知見では言語教育における臨界期の存在は証明できないからです。
しかし現実は、その種の「教室」は全国各地で大流行です。
ここで、早期教育のなかでももっとも多い英会話「教室」のことについて話をすすめていきましょう。
英会話教室に通わせているお母さんは、 1歳や2歳の子どもが教室で習ってきた英語の単語を一言二言発語すると「ああ、うちの子はネイティブだ。この先どれだけ英語を覚えるのだろう」と喜ぶわけですが、まったく意味のないことなのですね。
意味がないどころか、子どもの育ちの中でもっとも重要な「子どもの時間」を奪っていることに気がつきません。あふれる愛情と思ってしていることが、後年、取り返しのつかない禍根を引き起こすことに対して、思考のパースペクティブをもっていません。
しかし、「外で遊ぶ」「絵本を読んであげる」というよりも、圧倒的にたくさんの家庭が英会話教室に通わせているという現実は、ほかの子どもと同じようになってほしい、あるいは、隣の家がしているからと、世間体からの他人への同調思考(見栄、体裁)も見逃せない点です。
また、子どもには無限の可能性があるから、親の責任でその可能性の芽を摘んではいけない。そのためには生活費を削っても子どものために、と涙ぐましい努力(?)をしている人もいると聞きます。
子どもには「無限の可能性」があるという言辞は、一見、美しく正しいように聞こえますが、本当でしょうか。よくよく考えて見なければなりません。同じようなことに、夢は努力したら必ず叶えることができる、というのもあります。これも本当でしょうか。
これらの叱咤激励(?)のような言葉は、子どもが成長し現実のわが身を省みるとき「呪いの言葉」として、胸の底に沈殿する可能性はないのでしょうか。
私に言わせれば、両方とも間違っていると思います。間違っているだけでなく極めて無責任で危険な言葉だと考えています。
しかし、そのような考えで早期教育に走っていく親御さんたちがたいへん多いという現実が、一方にあります。
人間が人間になりえるための母国語
さきほどの英会話教室の話に戻りますが、最悪の場合は、子どもが母国語を失ってしまうという危険性があるのです。母国語を失うということは、自分の自己同一性(アイデンティティー)、つまり、自分という存在の独自性まで失いかねないのです。われわれにとっての母国語は、英語ではなく日本語ですね。日本語を、 3、4歳になっても発語しない子どもがこの国の中で急増していると言ったら、皆さん、驚かれるかもしれませんね。
あるいは、早期英語教育の周辺知識をお持ちの方は、苦渋の表情で「そうなのですよ、ね」と、言われる方もおられるかもしれません。
つまり、早期英語教育を信奉し実践している親は、子どもが生まれてから 2、3歳まで話しかけることをしないで、起きているときは英語のビデオを見せ、眠りに入ると耳元でカセットテープを回しているのです。日本語で話しかけると発音が悪くなる、と一切日本語を親は発さないのです。冗談のような話ですね。日本語というのは、日本人だから時期が来れば自然に覚え発語するものだと思っている親御さんが結構たくさんおられるのです。
言うまでもなく外国語の習得は、最初に母国語を覚え、母国語で自在に自分の考えが組み立てられ、意見が表明(発言)できるという過程を経て初めて可能になるのですね。
それはちょうど中学生くらいが言語教育の適齢期である、と多くの英語学者や教育学者の方が言っていますね。外国語学習を第2言語と混同して考えられている方も、また、たくさんいます。第2言語とは、母国語のほかに日常生活上どうしても必要な言語のことです。
わかりやすく言えば、相撲の朝青龍(モンゴル語)にとっての日本語(第 2言語)です。朝青龍は、幼児期から日本語を学習していたのではありません。相撲の世界に入り必要上、外国語(第2言語)の日本語を獲得したのです。朝青龍や他のモンゴル出身の力士の日本語の発音・運用能力を考えれば、このことは理解できるのではないでしょうか。
しかし、困ったことに、そんなことはない、ニューロンやシナプスがグジャグジャと活溌に動いているときに英語を教えておくべきだ、という考え方が大勢を占めています。
そんな中で、日本語を日常的に全く遣わない生活をしている(させられている)子どもに会ったことがあります。なんと言ったらいいのでしょうか。暗いのですね。
その子のいる空間が異様な雰囲気に包まれているのです。表情は虚ろで精気がないのです。発語するのは“ what is this”や“how are you”のほか何も話せないのです。
人の子ながら、その子の将来を思い暗澹たる気持ちになったことがありました。親はあふれる愛情を注いでいると思っていますが、子どもにとっては、日々人間性を壊されていっているのですね。そのような間違った早期教育に嵌(は)まっている親子にたくさん出会いました。恐ろしいことですね。(ふじい・ゆういち)
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