
英語教育の導入
今日ここには、保育士のかたが半数近くおられるようですね。ぜひ、子どもたちのお母(父)さんに伝えていただきたいのです。
英語、あるいはフランス語や中国語などの外国語を教える適齢期は、母国語をきちんと話せ、母国語で論理展開ができて、自分の考えや感情を相手に伝える能力がついてからだ、と。
コマーシャリズムに脅迫(おど)されて、小さな頃から外国語習得にかまけていたら母国語も外国語も話せなくなる。そして、自分はいったい何者なのか、と未来に向かう途上で途方に暮れ立ち竦んでしまう子どもがうまれる、という可能性がきわめて高いということを認識しておく必要があります。
しかし、困ったことに現在この国は、小学校段階から英語を教科に組み込もうと画策しています。つい 2 〜 3 日前、朝日新聞を読んでいましたら、小学校の英語教育に 38 億円の予算を組んだことが載っていました。
小学校から英語を教科にする目的は、「国際人の育成」だそうです。何をもって「国際人か?」という定義は曖昧にしたまま、政策はすすんでいきます。経済界からの要請も見え隠れしています。
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ここには、学校の先生がたもたくさんおられます。お分かりですよね。英語を小学校の教科に導入したら、入った時間分だけ他の教科の時間を削らなければなりません。多分、国語や社会の時間が減らされていくのは、火を見るより明らかでしょう。そうしますと、ますます子どもの情緒(こころ)は育っていかない、言語(英語)教育によって精神的に引き裂かれた中途半端な「国際人?」が誕生してきます。
今、小学校の英語教育はそういう危険な状況にあるわけです。
多くの識者が、この状況に警告を発しています。
皆さんよくご存知で、私もよく例に出すのですが、藤原正彦さんがいます。今、『国家の品格』(新潮新書、 2005 年)がベストセラーになっている、たいへん人気のある数学者ですね。
品格あふれる見事な髪型をされている藤原正彦さん。氏が、『祖国とは国語』(新潮文庫、 2006 年)の中で「一に国語、二に国語、三四がなくて、五に算数」と仰(おっしゃ)っています。
また、英語を小学校から導入することについては、
《英語教育を強化拡大し英会話能力を育てるため小学校から英語を導入する、などと言うと聞こえはよいが、これは他教科の圧縮を意味し、国民の知的衰退を確実に助長する。愚民化政策と言って過言でない。》(同書 50 ページ)。
と痛烈に現在の小学校への英語教育導入を批判されています。私は、藤原氏の全ての言説を肯(がえん)ずるわけではありませんが、国語教育についていわれていることは正鵠(せいこく)を射ていると思っています。
それから、少し年配の方はご存知だと思います。むかしよくテレビの同時通訳の番組に出ておられた鳥飼玖美子さんという方が『危うし!小学校英語』(文春新書、 2006 年)の中で、「文部科学省は、英語の小学校導入に躍起になっているが、いろいろな問題があります。まだ、正式に決定したわけではありませんから、みんなでよく考え自分の意見をもちましょう」と訴えられています。
さらに、慶應義塾大学の言語心理学者・大津由紀雄教授は、「今、小学校には、言語学としての英語を教えることのできる先生は殆んどいません。文部科学省は、カラオケ上手に音楽教育を担わせるのか、と皮肉っておられます。非常に分かりやすい譬(たと)えですね。
カラオケ上手なかたは、確かに歌はうまいでしょう。音符を読める人もたくさんおられるでしょう。しかし、言語教育をそのように安易に任せていいものかどうかは、よく考えなければいけないところですね。また、大津教授は、『英語学習 7 つの誤解』(生活人新書・NHK出版、 2007 年)のなかで、「臨界期」、「第 2 言語」についても詳しく言及しておられます。
毎日新聞の『読者の広場』にこんな「意見」が掲載されていました。紹介します。
《昨今、小学校からの英語教育の是非が議論されているが、私はそのような報道に接するたびに、「いったい何を考えているのだろう?」と思ってしまう。「これからは国際的なコミュニケーション能力が必要だ」という意見自体は正しいのだろうが、小学生の段階では、社会性はおろか、精神の発達も不十分である。ならば教育者側は、日本人としての心の豊かさや、コミュニケーション能力の育成を優先させるべきではないだろうか。ゆとり教育という名の、授業時間、授業内容削減による学力低下は、明らかに政府側の失策である。そんな中で、他教科の授業時間を削減してまで英語を学習したところで、さらに学力が低下するだけだと思う。英語によるコミュニケーションの能力の育成は、中学校からでも遅くはないだろう。小学校への英語教育の導入には断固反対する。》
これはだれが投書したと思われますか。兵庫県の 18 歳の高校生の男の子です。 18 歳の生徒でも事の本質が分かるといったら、この男の子に失礼ですが、いっている論旨は明快ですね。若干、学力に言及している点を除けば正論ではありませんか。
今の文部科学省と、英語を導入することで経済的利益を獲得する勢力が合作でこの〈愚策〉を推し進めているのでしょう。
さて、当地広島の広島修道大学の英語学の教授・山田雄一郎さんも同様の危惧を『日本の英語教育』(岩波新書、 2005 年)で書いておられます。
また、「高いお金を出して英会話教室に通わせる。英語教材を買って家で学習させる。それらは、まさに、ドブにお金を捨てるような『思い込み料』である」、とある新聞で語っておられました。 このように、心ある言語学者、英語学者、国語学者、さらに同時通訳者や数学者も、小学校の英語教育、早期教育の危険を発信されているわけです。そのことをわれわれがどのようにきくかということが、たいへん重要なことだと思います。
記憶する作業でこころは育つか
次に、早期教育の別のカテゴリーについてお話をしていきます。
早期教育教材の数あるパーツのなかで、カード(点や絵の描いてあるもの)での記憶学習(?)があります。カードを取り出し、瞬間、子どもに見せて「記憶」させるというものです。点のあるカードを見せて、瞬時にその数をいわせるのです。視力に影響がでるのではないかと心配ですが、しているかたは、それどころではありません。
また、絵が描いてあるフラッシュカードは、子どもが絵を言葉に置き換えます。
例えば、「お母さん」の絵が描いてあるものを見せれば、「おかあさん!」と発声するのです。花や動物の絵もあります。それを飽くことなく続けます。絵は一般的ですが、「そこに描かれている」ものしかありません。お母さんの姿は、「そこに描かれている」お母さんしか見ることができません。そこに描かれているお母さんしか、子どもの記憶の貯蔵庫には残りません。
「そこに描かれていない」お母さんは、存在しないことになるのです。
このような記憶というものは、たいへん危険なことではないでしょうか。そこには、「泣いているお母さん」「怒っているお母さん」「隣のお母さん」などは、存在していないのです。
それよりなにより、子どもと二人きりでカードを見せ、機械的に答えさせているという、その光景は何か異様ではありませんか。
そして、そのように反射的に絵を覚えることによって何が獲得されるのでしょうか。心を育てるという観点からいえば、まったく無意味であるということは即座に理解できます。
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今、ここに黒板がありませんから書きませんが、例えば、「あ」というひらがながあります。教育では「あ」なのです。「お」に少し似ていますが、これは断じて、「あ」でしかありません。また、 1 + 1 = 2 というのは、誰がなんといっても、答えは 2 なのです。このように教育は、悲しいかな「強制」の部分を持っているのです。このような教育の分野は、子どもが学齢(満 6 歳)に達したときからはじめるのがいいのです。早くから教え込むことによってなくすものの大きさを考えなければなりません。
分かりやすい例でお話しましょう。
A子ちゃんとB男くんが、お母さん、お父さんと一緒に夜桜を見に出かけました。桜が、折からの夜風を受けて空に舞っていました。A子ちゃんは、興奮口調で、「お母さん、きれいだね。まるで流れ星みたい。ねえねえ、きれいでしょう!」、といいました。
同じように桜を見たB男くんは、冷静沈着の面持ちで、「お父さん、桜っていうのはバラ科だよ。バラ科の落葉高木なんだ。むかしこの国では、平安時代から花といえば桜といわれていたんだ。知っていた?」。
小さな子どもですよ。小学校 5 、 6 年生ではありません。2歳か3歳の子どもが、どちらをいったら皆さんは「いいな」と思いますか?
バラ科がいいですか。もちろん、バラ科がいいとおっしゃるかたがあっても構いません。5、6年生になれば桜がバラ科の植物であるということは習得の知識であるかもしれません。しかし、 2 歳や 3 歳の子どもが、これはバラ科である、昔はそれが日本の花の総称であった、などということをいったら、少し気色(きしょく)悪くありませんか。そういう気色悪い子がいっぱい育ってきました。
これは、われわれ親のせいですね。社会のせいでもあります。また、お母(父)さんの問題でもありますね。
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皆さんを批判するとか、皆さんがしているからといって揶揄するわけではありません。
それでも、バラ科がいいといわれるかたは、ずっと続ければいいのです。子どもが中学、高校生くらいになれば、その結果が現れてくるでしょう。そんなことも想像できないようでは、子育てはなかなか困難ですね。
先ほどもいいましたように、現代の子どもたちの思考様式、行動形態というものは、今お話してきたような早期(知育)教育などに侵されているのではないでしょうか。
人を憎む、あるいは愛するという感情はだれしもあります。しかし、殺意と行動が直結するという短絡は、やはり思考力、自尊感情の欠落以外ではなかなか説明できませんね。「こころが育っていない」がゆえに引き起こされる事件にわれわれは、あまりにも多く遭遇してきました。
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「先行世代の子育て事情」のところで補足をさせていただきましたが、またここでも補足をしなければなりません。
あまり大きな声では言えませんが、どうも早期教育に熱心な親はお金には不自由していないようですが、少し身体の上部が不自由なのではないのかと勘ぐってしまいます(こんなことを言えば猛烈な抗議がくるでしょうが)。
親が子どもに早期教育をするのは——まるで製造した商品を市場で高く売るために、あまり役に立たない様ざまのオプション(付加価値のようなもの)を付け、顧客の歓心を買うことで販売促進を図るという経済行為とどこか似てはいないか——と言う疑念が消え去りません。
〈商品=子ども、市場=社会、高く売る=有利に生きる、オプション=早期教育〉と言葉を入れ替えたら、なんともよく理解・納得できるのではないでしょうか。そうでなければいいのですが…。
また昨今、「学力」というものについての考え方も少し歪(いびつ)になっているのではないでしょうか。
学力については様ざまの解釈がありますが、ここでは「学ぶ力」と理解したいと思います。この考えは、従前多く語られていた「学力観」(暗記力や記憶の量)ではなく、学べば学ぶほど疑問が前景化する、という「学ぶ力」を指しています。
このように考えますと、私たちが日頃(ごろ)思っていた、学力は測定可能で数値化される、という「迷信」から脱却することができます。
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数値化の最も卑近な例として「偏差値」があります。皆さんよくご存知で説明するまでもありませんが、偏差値とは、同学齢集団での相対的位置を示す指標です。この偏差値は今日、教育の世界では学力測定の際の数値として利用され、その功罪が広く論議されていることは周知のことです。
また困ったことに、偏差値の上下を人間の諸能力(価値)の評価と混同し、それに基づいた指導の実際が教育現場で散見されます。
このような迷妄をわれわれは一日も早く打破しなくてはなりませんね。偏差値の功罪の「罪」の方は、まだまだたくさんありますが、今日はこの辺でおしまいにします。
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1980 〜 90 年代にかけて「拝金主義」という何ともみっともなく、かつ精神を荒廃させる思想(風潮)がこの国の社会を風靡(ふうび)しました。
その空気の中で育った世代は、「等価交換」という、あまりおすすめできない経済の「理屈」を学びました。
その「理屈」を早期教育に当てはめますと、「投入した資金は回収する」という考え方です。換言すれば、「教育とは投資」の思想ですね。投資は、当然リターン(利益回収)が前提となります。
これでは子どもはたまったものではありません。英会話教室に高い金(投資)を払っているのに、話すことはおろか単語も満足に覚えてこない。進学塾に通わせているにもかかわらず高次方程式も解けない——。
親の企図したコストパフォーマンスに狂いが生じます。親のイライラ、不満は爆発します。爆発はどこに向かうのでしょうか。考えると空恐ろしくなってきます。
しかしこれが、この国における親子の日常風景なのです。
また親は、「子ども時代」を、大人になるための「準備期間」であると思っている人が意外と多くいます。そのような人が早期教育にはことのほか熱心です。
これも皆さんには解説の必要がないと思いますが、「子ども時代」は大人になる準備をするのではなく、二度と訪れることのない「子ども時代」を生き(き)ることが、子どもにとって何よりたいせつな成熟の季節なのです。親はそれを保障するために(のみ)存在するのです。
「子ども時代」を保障されなかった子どもの悲劇をわれわれは、数多くの事件の中に見出すことができます。すなわち、大人が「子どもの時間」を守るということは、子どもの尊厳を守ることと同じなのです。。
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