
メディアと子どもとの関係
ただ、事件というものは、単一の原因だけではなく、さまざまな要因が複雑に絡み、重なり合って起こるものです。
絵本を読んでこなかったから殺人をする、というようなことはいいません。ゲームをしすぎたからおかしくなった、などとも申しません。そんなことはあり得ないことでしょう。
しかし、テレビゲームやパソコンを使ったロールプレイング・ゲームなどの中身についてはよほど吟味しておく必要があることは、別の問題として重要なことだと思います。
それ(ゲームなど)をしたらすべての子どもがおかしくなる、というのは暴論です。
困ったことに、科学的に証明されていないことをあまり声高にいってはいけないという一群の人がいます。果たして、そうでしょうか。
それはこういうことです。
ここから正面右半分の方は、毎日、それこそ四六時中、子どもにテレビを見せ、ゲームをさせてください。左半分の方は、その反対に、テレビ、ゲームはしないでください。しても、絵本を読むくらいです。
このような子どもの人権を無視した危険な実験が可能でしょうか。できませんね。そんなことを本気で実行したら大問題にもなります。
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それを、柳田邦男さんは『壊れる日本人』(新潮社、 2005 年)の中で、そのような人体実験について以下のように述べておられます。
《やはりテレビを見過ぎた子どもの人格形成にゆがみが生じましたという論文を学会に出せというのだろうか。実験台にされ人格形成にゆがみが生じた子どもたちの修復については誰がどのように責任を取るのか。一人一人の人生にかかわる人格形成の問題を、生身の子どもを実験台にして明らかにするなどということは、もってのほかだ。科学的な証明が必要だという批判は形式論としては正しくても、現実の問題としては無茶苦茶な話だ。それは単なる科学主義に過ぎない。》(同書 16 ページ)。
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そして、衝撃的な『脳内汚染』(岡田尊司/著、文芸春秋、 2005 年)という本が出版されました。本の帯には「子ども部屋に侵入したゲーム、ネットという麻薬!」とあり、著者の言葉として「勇気を奮い起こして声を上げなければならない。それが人間として、一臨床医としての責務ではないのか」と記されています。
これは、京都の医療少年院に勤務されている精神科医のかたが書かれた本です。この本につきましては、はげしい賛否両論がありました。
先ほどもありましたが、きちんとした科学的な分析がされてないという意見と、もう一つは、このかたはサイコサスペンスの作家〈ペンネーム・小笠原慧(おがさわら・けい)。 2000 年、『DZ』(角川書店)で横溝正史ミステリ大賞受賞〉でもあるのですね。そんなことから、文藝春秋とグルになって虚実ない交ぜに書いたのではないか、との批判がネット上に飛び交っていました。
この本は、先の柳田邦男さんが自著で推薦されています。「ぜひ、多くの人に読んでほしい。そうすれば今の子どもたちの実態を知ることができる」、だろう、と。
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この『脳内汚染』にどのようなことが書かれているかといいますと、簡単に言えば、コンピュータ・ゲームやネット・ゲームをし過ぎると、子どもの脳が汚染され、麻薬や覚醒剤などへの依存、ギャンブル依存と同様の依存を生むのである——。
また、《依存や耽溺が起こるとき、脳のレベルで広く共通してみられることは、前頭前野の機能が低下していくことである。コカインやマリファナ、覚醒剤などの慢性使用は、前頭前野機能の低下を起こし、一層理性的判断を失わせ、危険に対して無頓着になっていく。》(同書114〜115ページ)と慢性中毒(習慣性)の危険を数多くの戦慄すべき事例を挙げながら警告しているのです。何より恐ろしいことは、バーチャル(仮想現実)で経験したことを、現実と混同してしまうことです。これは、最初のほうでお話しました短絡的な殺人と関係しているのではないでしょうか。
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少し前になりますが、長崎県で小学生の少女が同級生をカッターナイフで殺すという事件がありました。あの事件も、インターネット上で交わされた言葉(書き込み)に逆上して、教室で殺人を犯したのです。
パソコンの画面に映る言葉が直接入ってくる怖さは、経験しないと、にわかに理解できないものです。相手と面と向かって話しているときは、「この馬鹿!」といわれても、いっている相手の表情が見えるわけです。身振り手振りの身体的な動きも視野に入ります。それで、微妙なニュアンスも理解できますね。それが、パソコン画面に「死んでしまえ!」と書いてあれば、受け取る側の衝撃はまったく異質なものになります。そういうことを知りつつメディアに接していかなければならないのが現代社会なのです。
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メディアの弊害のなかに、発育不全の問題を書いておきました。これは、幼児を長時間、テレビ、ビデオに晒(さら)しておくと、初語が遅れる、喃語(なんご)がなかなか出てこない。初語が出てくる時期の 1 、 2 歳にテレビのコマーシャルの宣伝文句を発語したという例が学会で発表されているそうです。
私ども「絵本で子育て」センターの主催する「絵本講師・養成講座」の講師をお願いしています、川崎医科大学の片岡直樹教授(現名誉教授)のお話です。
先生によりますと、自分のところに診察で訪れる子どもたちは、他の病院では「自閉症」と診断されてきているが、大方は自閉症ではない。自閉症というのは、脳の器質的な障害で先天的なものであるが、よく診察すると自閉症ではないことが多い、といわれています。
では、この自閉症と同じような症状を呈しているのは何によるものなのかというと、テレビ、ビデオなどの電子機器に長期間晒した結果なのではないか、と先生は推論されました。
先生は、それをテレビ、ビデオの見せすぎによる言葉の遅れ「自閉症類似」と呼んでおられます。そのような子どもが、先生の診察室に大量に押しかけているということです。
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今、このような家庭環境の中で子どもを育てているという怖さを、やはり正確に知っておくべきだろうと思います。
先ほどもいいましたが、いろいろなかたが、科学的な証拠(エビデンス)がまだ提出・確認されていないのだから、テレビが悪い、ビデオはだめだ、といってはいけないとさまざまの媒体を通して発言しています。
ここにおられる皆さんに対してテレビが悪いといっているのではありません。皆さんが、どれほど長時間テレビを視聴しようが、ネット・ゲームで遊ぼうが多分無害でしょう。明日学校だ、会社だというときは少し控えめがいいかも分かりません。脳が壊れるということはないでしょうが、生身ですので、眠くなったりはするかもしれません。
生まれて間もない幼児に、テレビを長時間見せたり、ゲームをさせたりしてはいけないのです。ここは、勘違いをしないでくださいね。
「私」空間と「公共」空間
皆さん、大分眠くなってこられたでしょうか。そろそろ眠ろう、とお思いのかたもおられるのではないでしょうか(なに! すでにたくさんのかたが眠っておられる)。
さて、非常に簡単・雑駁に、子どもの育ちの現状、早期教育、メディアの弊害について触れてきました。これらの問題は、こんなに簡単に済ませてしまいますと誤解を招くおそれがあります。本来ならもう少し詳しく丁寧にお話するのですが、時間の関係で割愛することをお許しください。
昨日、今日のためのレジュメを私が作成していましたら、それを見ていた私どもの理事長に、「こんなレジュメでしたら、一つか二つの話で終わってしまいます。到底、絵本のところまでいきません。夜に勉強して、きちんとお話するように」と激励(?)されましたので、大いに勉強して、前段のところは大幅に端折りました。
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今まで、私がお話してきましたことは「すべて正しい」、と本人は思っています。時々、事務局の人たちに私の講演内容の当否を尋ねますと、大方の人は首を少し傾げ沈黙されます。事務局の人たちの常識と私の常識には、相当な開きがあるということを申しあげておきます。それが、私にはとても不思議でなりません。
もし、皆さんがたのほうで疑問の点があれば、大いに解明、研究をしていただきたいと思います。この分野では、専門書などたくさんの資料が公刊されています。
こんなことまでも、学習しなければ子育てが困難になっているのが“現代社会”なのですね。
昔はそんなことはありませんでしたね。高度経済成長のなかで地域が解体され、家族が壊れ、子どもの遊ぶ相手も時間も、そして空間もなくなってしまいました。
子どもが社会化(近代に編入する)するために必要な通過儀礼の「場」は、残酷なまでに消失してしまいました。
子どもたちは、「子ども社会」でのさまざまな体験を持たないで未来に向かって生きて往きます。その後姿を孤独で寂しいものと見るのは、単なる大人の感傷でしょうか。
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私は今、月の半分くらい福岡に住んでいます。時々、街(天神)へ出るのにJRを利用します。私が乗るのは、筑肥線の周船寺という駅なのですが、暇なものですから乗客を「観察」することが時たまあります。もちろん、観察よりも読書をしているほうが多いのですが(為念)。
ある日、周船寺駅で乗ってこられたかた(女性)が、天神駅で降りるときまでを観察していました。女性はシートに腰をかけるや、すぐさま化粧袋(ポーチというのでしょうか)を取り出しました。最初はなにやら袋の中で品物の順列並べ替えをしているようです。それが終わると、手鏡を左手で持ち右手に持った袋状のものでパタパタと顔を叩き始めました。
さて、3駅を通過したところで、今度は私の見たことのない器具(四角の鉄製のもの)を取り出し、それを目の前にあて鋏で睫毛を整えたころに、電車は天神に到着しました。女性は勢いよくシートを蹴り、人ごみの中に歩を進めていかれました。基礎から仕上げまできちんと化粧して颯爽として降車していかれる、こんな光景は今や日常茶飯ですね。
自分だけの場所(私的空間)と、他人もいる場所(公共的空間)の区別がなくなってきたのですね。
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こんな笑い話があります。
東京で、今いったように、基礎から仕上げまでをして降りて行かれた女性を外国人が追いかけました。外国人の手には、なんと札束が握られています。女性を雑踏の中で見失った、その外国人に首尾(追跡理由)を尋ねました。
彼は「あのような女性はうちの国では『そういう女性』ということになっているから、『あなたはいくらだ』と訊きたかった」、ということだったそうです。恐ろしい話ではありませんか。
私的空間と公共空間の峻別ができない、自分だけの世界と自分以外の人間が存在する世界のなかで、自身はどのような身体的動作をとらなければいけないか、が理解できない人が多くなってきました。
この淵源(えんげん)は、子どもに全能感を持たせる現代の「子育て環境」(早期教育など)が大きく影響していることを、私たちは厳しくこころに留めておかなければなりません。 |