
さまざまな絵本との関わり方
ちょうど3時を回りましたので、いよいよ絵本の話に入っていきたいと思います。
絵本というのは一般的に、絵と文字で構成されています。それから、絵だけあって文字のない絵本もあります。このごろは、写真絵本も多く出版されてきました。当たり前ですが、文字だけの本は絵本ではありません(為念)。
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これから、絵本、絵本活動についての基本的な点について、いくつか話していきます。
まず、読み聞かせ、あるいは読み語り、読みあいなど、いろいろな呼称がありますが、絵本を子どもたちに届けたい、一緒に楽しみたい、という大人がどういうわけか急激に増えてきました。そのこと自体は慶賀すべきことなのでしょうが、いろいろ問題も噴出してきました。
とりわけボランティアとして、保育園や幼稚園、小、中学校に読み聞かせに行っておられるかたもたくさんいらっしゃいます。これも、たいへんいいことだと思っています。そのような活動を介して、子どもたちに絵本の素的を知ってもらえたら、それはそれで素晴らしいことだと思います。
しかし、ボランティアで絵本の読み聞かせをするならば、絵本というものの「イロハ」くらいは知っておかなければなりません。
動機は単純・不純でもいいのです。「絵本がすき」「暇ができた」「何か社会に役立つことがしたい」「隣の人がしている」など、なんでも結構です。
動機は単純・不純でも、実行(践)の心構えはしっかり持っていなくてはなりません。ここのところに意外と難しい問題があるのです。
絵本、絵本活動の基本的なことを学習しないで即活動に入りますと、さまざまな困難に遭遇し、初志がぐらついてくることが間々(まま)発生してきます。一番多いのは、何をどのように読めばいいのか分からなくなってきた、というものです。嘘のような本当の話なのです。
そのかたに、「あなたはいったい家に絵本を何冊持っているの?」とたずねたら、胸を張って「5冊です」。では、「今まで何冊くらい読んできたの?」と訊けば、涼しい顔で「 10 冊くらいかしら」。堂々たるものです。
これでは困りますね。しかし、このようなかたは決して少数ではありません。
絵本をたくさん持っていれば・読んでいればいい、といっているわけではありませんが、程度というものがあります。
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また、「私が真剣に読んでいるのに、子どもがまじめにきいてくれない」という嘆きもあります。「何か、勘違いしていませんか」といいたくなります。
こんな考えでボランティアをしているのなら、絵本ではなく、自分の住む近所の道路掃除をしたほうが人々から喜ばれますね。
また、学校側との協調関係が結べず、先生方とボランティアの方との不協和音が生じている例もたくさんあります。
毎日新聞の『みんなの広場』に投書されていたお母さんがありました。それは、自分は一所懸命に読み聞かせ活動しているのに、先生方の理解がないというものでした。関東方面に住んでいるかたでした。
内容はといえば、校長の方針が変わり、読む絵本のリスト提出を求められた。また、一部の先生に読み聞かせの理解がない、だからもう学校に行きたくない、というものでした。
方針や理解の中身がどのようなものか詳(つまび)らかにされていませんでしたので、安易な判断は避けなければいけませんが、「行きたくなければ、行かなければいい」のです。
私たちは、読み聞かせ(読みあい)ボランティアをしているかたたちに講習(義)をする機会がたくさんあります。
そうした講習(義)をしましたら、「えっ、絵本って、そんなに凄いものなのですか」「絵本って、そんなにたくさんの種類があるのですか」、と。
あなたは、読み聞かせのボランティアをされているのでしょう、というのですがほとんど基本的なことについてご存じない。これでは、されているほう(子どもたち)が迷惑です。
今、この列島社会を覆っている一方のブームが「読み聞かせボランティア」の活動です。安易に「絵本を片手」に、学校や子どもたちのいる場所に出向き「読めばいい」と思ってもらっては困りますね。
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そして、ボランティアのかたは一様に「子どもの目がキラキラ輝いていた」「いっぱい元気をもらった」と、どこでも同じ科白を同じ表情で語られます。
そんなことは、思ったり感じたりしないでよろしい。元気を与えてくるのはあなたたち(ボランティア)でしょう。小さな子どもに元気をもらったと、喜んでいてはだめですよ、というのですが、そういうかたが本当にたくさんいらっしゃる。
どうも今の大人たちは、子どもに元気をもらわなければ生きていけないほど、疲れていらっしゃるようだ。
同時にそのようなかたたちは、ボランティアの陰で報酬を要求しているようだ。その報酬は金銭ではない「称賛・感謝」ではないのでしょうか。
そんな大人が子どもを育てていては、子どもはそれこそ元気に育たない。ですから、そういうことをいわないで、きちんと学習して、子どもと一緒に楽しんでくることがたいせつです。
読み聞かせの空間の中で、子どもが目をキラキラ輝かせることもあるでしょう。あるいは、ワーワーと騒いで読み聞かせが成立しないこともあるでしょう。あるいは、しくしく泣く子もいるでしょう。
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読み聞かせの営為(いとなみ)とは——子どもたちと絵本と読み手、そしてそれを包む空間、そのなかで展開されるもの——それは共通の記憶の紡ぎなのです。
そのように体験を共通のものにしていく場が、「読み聞かせ」なのではないでしょうか。
ところが、「今日の子どもは、ぜんぜん乗ってこなかった。このクラスはいつもだめね」というようなことをいっているボランティアは、絵本など読まずに、街の公衆便所にお花を活けたり、先ほどもいいましたが、道路の掃除をしたりしているほうが、はるかに多くの人に喜ばれ「称賛・感謝」されると思います。
こころのなかに流れる「物語」
皆さん、ご存じかどうか分かりませんが、読み聞かせという活動(営み)は、レジュメにも書いておきましたが童話作家の椋鳩十氏が、鹿児島県立図書館長をされていたときにはじめられた「母と子の 20 分間読書運動」が嚆矢(こうし)とされています。
スタートは 1960 年ということですから、もう 45 〜 46 年前となります。それは、どんな形態かといいますと、子どもとお母さんが、夕飯が終わったあとに本を 20 分間読みあうというものです。これは、絵本に限ったことではなく、物語でも何の本でもよいのです。そういう活動を鹿児島県の家庭ではじめたのです。それが全国的に、絵本を読み聞かせる、読みあうという活動へと展開していったわけです。
時を経て 1967 年 10 月、東京でも絵本作家や児童文学家、教師など 15 名の創立会員が集い「日本子どもの本研究会」が発足しました。現在、一般的に流通している「読み聞かせ」という言葉は、この会を母体として誕生したといわれています( 2009 年 11 月発行された『岩波国語辞典』第七版に「読み聞かせ」の言葉が収録されました)。
読み聞かせの言葉の誕生について、増村王子(きみこ)氏は『読みきかせの発見』(岩崎書店、 1973 年)のなかで次のように書いています。
《読みきかせという表現は、動詞を名詞に転化させたものです。読み手の読む行為と同時に聞き手が聞くという形で読書行為をしていること、読み手と聞き手とが同時進行形で一体なのだという発見が、この「読みきかせ」ということばを読書運動のなかでうみ出したにちがいありません。》(同書 9 ページ)
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では、なぜ椋鳩十氏は 45 〜 46 年も前に、そのような活動をしようとしたのでしょうか。前段でお話ししましたように、 1960 年というのはこの国が経済成長の階段を猛烈な勢いで駆け上がっているときでした。このまま、この国は経済成長し物質的なゆたかさは到来するだろう。しかし、そのゆたかさに目が眩み、子どもたちのこころが空白になってしまったら、取り返しがつかない。そういう時代に、母の声として物語を語り、母と子が物語を挟んで心を合わせておけば、子どものこころはきっと健やかに育っていくだろう、と考えられたのでした。
これが、そのとき、まだ名前のついていない「読み聞かせ」のはじまりであったのです。
約 50 年前のことですから、まさに椋鳩十氏は慧眼の持ち主であったのですね。今あるような社会、子どもたちの姿を作家の目で、あるいは教育者の頭脳で見通したのでしょうか。
やはり、子どものこころを育むためには、母の声が必要だ、物語がたいせつだということを分かっていたがゆえに、「母と子の 20 分間読書運動」を積極的に推進されたのでしょう。
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皆さんよくご存じだと思いますが、福音館書店で絵本、児童文学の編集に永く携わり、後に、社長、相談役に就かれ、ご自身もたくさんの絵本、児童文学論を著しておられる松居直さんが、長崎の事件( 12 歳の少年が、ショッピングセンターの屋上から幼児を突き落とした事件)について『絵本のよろこび』(NHK出版)の中で次のように述べられています。
《「この少年は絵本を読んでもらった経験がなかったのではないか」と、瞬間的に思いました。(中略)あの少年がもし家庭であるいは学校で、親や先生から絵本や物語を読んでもらう経験をしていたなら、自分が生きてゆくときのモデルや道筋をどこかでみつけられたかもしれないし、誰かが彼に声の言葉で物語を語りかけていたなら、あるいは見失った自分を取戻し、自分の気持をみつけられたかもしれないと思いました。(中略)きっとこの少年の頭のなかにはいろいろの言葉——知識や情報——が詰まっているのに、心のなかには言葉がからっぽだったのだろうと、妙に納得をしていました。》(同書 252 ページ)
前段でいいましたが、殺意と行為の間には大きな「深い河」があるはずですね。その河が、松居直さんがいわれる「絵本」や「物語」ということですね。
それは、お母さんの声であり、お父さんの声であり、先生の声なのですね。それがなかったがゆえに、少年はあのような残虐な行動に走ることができたのではないか、と書いておられました。
私にとって、その文章は「案を叩いて得心する」ものでした。
絵本を教育の道具にしない
ですから、先ほど「バラ科」の話をしましたが、絵本というものは動物や植物の名称、色や数を教える「道具」なのではないのです。
例えば『ちびゴリラのちびちび』(ほるぷ出版)という絵本があります。今は読みませんが、皆さんがお子さんに読んであげた後、「ちびちびは幾つになった?」「一番初めに出てきた動物は何?」というような質問をする。あるいは、読んだことを確認するために、いろいろ余計なことをされるかたがたくさんおられるのですね。これでは、読まないほうがまだましですね。
子どもというものは、親が考えている以上に、はるかにたくさんこころを揺さぶられています。こころにいっぱい刺激を受けているものです。しかし、大人が要求するような語彙(表現能力)を持っていないのです。
それを、質問することによって教育というものに換えている。子どもにすれば、今度読んでもらうときは「何をきいてくるのだろう?」と身構えてしまいます。『ももたろう』(福音館書店)では、きびだんごをだれにやったのか、順番にいえといわれたらたいへんだなあ、と考えてしまいます。絵本を楽しむという気持ちなんかまったくなくなってしまいますよね。
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絵本というのは、読み方が上手とか下手とか、声の出し方がどうのこうのとかいうことではなく、優しい声で、あまり感情移入しないで淡々と読んであげればいいのです。なかには、読み聞かせ方法(技術)について、さまざまな講釈をする人や団体がありますが、簡単にいえば「技術よりこころ」、「自然体」(普段の自分自身)がよい、と思っていただければいいと考えています。
また、絵本の読み聞かせを教育にしたら逆効果になる、といいました。点検や質問、そして確認が後にくるなら、子どもは「もう、読んでほしくない!」と絵本から離れていくのではないでしょうか。
さらにいいますが、絵本は教育の道具ではありません。教育は悲しいことに「強制」が存在する、と前段でいいました。
1+1= 2 と覚えなさい、「あ」という文字は「お」に似ているけれど「あ」は「あ」なんだよ、と教えなければならないのです。
ですから、うちの子は絵本が嫌いだというお母(父)さんがいるとすれば、絵本を子どもとどのように読んだのかを思い返されたらいいと思います。
もう一つ、とてもたいせつなことがあります。
私が今日ここで、この絵本がいい、あの絵本も素的といっています。皆さんがその本を買って帰ってもあまり意味がないのです。自分の子どもが、どんな絵本に興味、関心を持つのかということを、一番知らない(知っていない)のが親なのです。そういいますと、多くのかたが腹を立てられます。「自分の子どものことは、親である私が一番よく知っている」、と。果たしてそうでしょうか?
これは、宿題にしておきましょう。答えは、これからの生活のなかで確認をしておいてください。 |