〜絵本フォーラム第74号(2011年01.10)より〜

「ゆたかな時代に合った育児方法を探して 」

藤井 勇市(「絵本講師・養成講座」講師)

先行世代が伝え損なった家族の姿

読んでいない本が本棚に並んでいるという環境を

 答えを保留にして次に進みます。これは少し宣伝も入っていますが、家庭のなかには環境としてたくさんの絵本がなくてはいけません。そういいますと、読まない本があったら無駄になるだろう、絵本は高いのだから、といわれます。ちょっと考えてみてください。読む本、読んだ本だけしかない家庭の本棚は、何か寂しい気がしませんか。まだ読んでない本、これから先読まないかもしれない本があることによって、はじめて読書の環境はゆたかなものになるのではないか、と私は思っています。

 大型液晶テレビや一度も使用しない装置が満載の高級自動車にはお金が遣えるが、絵本は高いと感じるのはどうしてでしょうか?  50 万円のテレビ、 300 万円の自動車が高くなくて、どうして絵本の 5 万円や 10 万円が高いと思われるのでしょうか。

 これは、残念なことに読書というものに対する考え方の問題ですね。

 だれか(書評やブログ)が、この絵本がいいといったら単純に買ってしまう。それで、自分の子どもがあまり興味を示さないと、お母(父)さんにとっては、「わるい絵本」になってしまう。ですから、一定の量の絵本が家庭のなかには必要なのです。

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 そのような環境を作ったお母(父)さんが、一番に発見されることは、「なぜうちの子は、こんな本がすきなの。私だったら絶対選ばない」、ということです。

 そこに、子どもの成長と発達の発見があるのです。そして、いつか読もうと思う本が 100 冊、 200 冊ある。少なくとも、小学校を卒業するくらいまでには、ビデオやゲームがなくても、絵本がたくさんある。

 それとは反対に、絵本はないがゲームやビデオソフトはいっぱいある。未来について確実な予見はできませんが、一般的に考えてどちらの家庭で育つ子どもが幸せでしょうか。

10 年後の子どもの姿は、正確に描けないものです。自分の姿もあやふやなものです。われわれの世代はおよその見当がつきます。

10 年も経ったら、そろそろこの世とも、「さよなら」するため、棺桶のデザインを考えている自分の姿を思い浮かべることができます。親切な人は「ついでに骨壺も工作しておけば」とありがたく忠告してくださいます。

 子どもの 10 年後というのは見えません。親は想像したり、期待したり、希望を膨らませたりして、視野を曇らせてしまいがちです。しかし、親が心の奥底で思っていることは、あまり人様に迷惑をかけないで元気に育ってほしい、ということではないでしょうか。

 あるいは、英語を教えてきたのだから「国際人」になってほしいと思われるかたもあるかもしれません。

 さまざまな期待や願望を持つのは自由ですが、子どもの成長が親の作成した計画書どおり進行していないからといって、子どもに対して腹を立てたりするのは、「大人気」ないですね。

 予期しない事件や事故が起こったとき、テレビや新聞で見せる親の表情や嘆きの言葉をきく機会が残念なことに、たくさんあります。

 犯罪の加害者や被害者になったとき親は、そんな育て方はしていない、ちゃんとビデオも見せ、早期教育もしてきた。幸いうちは経済的にゆたかであったから、やってあげられることはすべてしてきた、と幼稚な自己弁護に終始します。

 こういうのが一番危険なのですね。そういう人(親)に限り、子どもが何か事件を起こせば「信じられない!」(思考停止)の言葉の連打です。困ったものですね。

「主食の本」と「おやつの本」の大きな違い

 話は、また絵本に戻りまして、ここから「いい絵本」「わるい絵本」に入っていきます。

 わるい絵本なんかあるのか、とよくいわれるのですが、それがあるのですね。それも、いっぱいあるのです。困ったことだ、と私どもは思っています。しかし、あまり大きな声ではいえませんが、私どもは、「いい絵本」しか扱っていません。

 まず、わるい絵本の典型というのは、本屋さんの店舗の前でクルクル回る棚、棚の名前は知りませんが、そのなかに入っている絵本です。あれを、私どもは上品に「おやつの絵本」と呼んでいます。私は、人品骨柄があまり上等ではありませんから「ジャンク本」といっています。ジャンク本を出している出版社も、また、「まともな本」も出しています。

 「おやつの絵本」は、人間の骨や肉や血は作ることができません。「いい絵本」で、骨や肉や血ができ人間の骨格、精神の一定の成長ができた後で、「おいしいね」といって、たまにスナック菓子や清涼飲料水を摂る、そんなものが「おやつの絵本」だと思ってください。

 だから、「おやつの絵本」ばかりたくさん与えたら、子どもの身体の骨格形成やこころの成長は期待できませんね。

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 では、どのように悪いか、ということを少し説明します。「おやつの絵本」の見本を持ってきましたが、皆さんのお席からはよく見えません。無理して見なくても結構です。

 ここに、『ももたろう』という絵本があります。これは、学習研究社という出版社の出しているものです。また、この『ももたろう』は、くもん出版の絵本です。いずれも、「おやつの絵本」の見本にふさわしい絵本です。見るからに作りが安易であると分かります。絵はアニメ調で、表紙を開けばすぐに「鬼退治」へ出発し、宝物を取り返して帰ってくる、というストーリーです。

 これらの本ではありませんが、腕時計をはめ、長靴を履いた鬼が登場してくる絵本もあります。

 このような本を読めば、その時代に腕時計や長靴はあったのか?という疑問を子どもは持ちます。絵本ではなくて、クイズ本になってしまいます。つまり、絵本の持つちから(魅力)を放棄して間違い探しのクイズ本になってしまっています。残念なことに、クイズ本は子どものこころを育ててくれません。

 やはり、こころを育てる良質な絵本というものは、文章(テクスト)も絵も芸術性の高いものであり、安易に子どもに媚びるようなものであってはいけませんね。

 松居直さんが再話した福音館書店の『ももたろう』の絵を担当された赤羽末吉さんは、「子どもの絵本だからこそ本物でなければいけません。本当の芸術を伝えなければいけない」、といわれています。赤羽さんは、国際アンデルセン賞を受賞された絵本界の重鎮です。

 しかし、絵本選びは難しいですね。これは、あくまで目安なのですが、先ほどいいましたクルクル棚には、あまり良質な絵本はありません。日本全国の本屋さんを回り調査したわけではありませんから、確かなことはいえませんが、どちらかといいますと、本屋さんの奥のほうに置いてある絵本のほうがよいものがあるようです。ですから、絵本というものは、絵が描いてあり、文章が載っていれば、すべて「絵本」だと思っていたら、大間違いであるということです。

 そして、今いいましたような良質な絵本を選び、子どもと一緒に読む、ということが現代の子育てにおいて、とても大事なことだと思っています。

先行世代こそ子どもたちのこころをゆたかにする方法を

 私はもうほんの少しで 60 歳になります。私の育った 1950 年代、昭和でいえば 20 年代ですね。戦争が終わり、必死に貧しさから脱出しようとしていた時代です。

 絵本は、どこの家庭にもありませんでした。村の家庭がひとしくとっていたものは「新聞」と『家の光』でした。

 『家の光』は、農協が組合員に配付していたものです。活字メディアというのは、その二つだけでした。

 地方の寒村に「絵本」という文化の光はまだ射してはいませんでした。

 しかし、昔話をはじめ、たくさんのお話を祖母からきくことができました。「一寸法師」「かちかち山」、「ももたろう」また、唱歌「青葉茂れる桜井の」(楠木正成と正行の別れ)など、たくさんのお話を祖母の肩の温かさの中でききました。

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 今、昔話をそらで語れるという大人がいなくなってきましたね。いなくなったから悲しい、悪いということではありません。この部分でも、前の世代からの伝承というものは途絶えてしまいました。「歌を忘れたカナリア」ではなく、最初から教えてもらえなかったのですね。歌を教えてもらえなかった世代に、歌を歌え、というのは土台無理な要求です。

 それに取って代わるものが絵本だ、と位置づければいいのではないでしょうか。

 もっというのならば、レジュメに書いてありますように、風のそよぎも、木々の揺らぎも、雲の流れも、おばあさんの声も「絵本」、なのですね。

 それがわれわれの世代の育ちの環境であったのです。それが今、なくなってしまったのです。それを取り戻そうというのは無理なのです。同じようにしようというのは、また、無理なのです。

 況(ま)して、貧しくなるというのはできる相談ではありません。われわれはゆたかになることを望んで、ここまでゆたかになりました。経済は成長し、物財はあふれんばかりになりました。しかし、それとは反対に人間の心は荒ぶ一方です。何という皮肉な現象でしょうか。

 ゆたかになれば、心もまた、ゆたかになると信じて懸命に働いてきたことが虚しくなる現実に、どう立ち向かえばいいのでしょうか。

 ゆたかになった社会の中で、子どもたちのこころをゆたかにする方法を考えていかなければならない時代をわれわれは生きているのです。

自分の家族以外の文化を知り社会性を身に付ける

 今日、講演のはじまる前に、この講演会を主催してくださった保育士の先生がたとお話をしていました。

 絵本から少し離れますが、今、子育てをしておられる皆さんにとってたいせつなことの一つは、保育士の先生がたと保護者のかたがより緊密な関係を結べるかどうか、そのような時間、場所を作ることができるかどうか、ということです。

 多くの地域で、最近になって学級連絡網(生徒の住所、電話など)の作成が頓(とみ)に困難になってきたとききます。ある市では、中学校の卒業アルバムの名簿に氏名とクラスだけを載せたものを作成・配付したそうです。この名簿は一体何のために作られたのか首を傾げざるを得ません。卒業して離れ離れになった級友の所在を確認することはできません。これが現在の学校(教育委員会)の官僚的・無責任体質(事勿れ主義)です。

 怪しげな法律「個人情報保護法」の成立を機に、一般の人たちのプライバシー意識(?)が一気に昂揚したのでしょうか。

 このような状況を受け入れることは、「他人は信用も尊敬もできない」ということを日々子どもに教えていることだ、と気づく人は少数です。そろそろこのような不毛な「思い込み」から覚醒すべきではないでしょうか。

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 さらに一つは、皆さん、雑誌やテレビで先刻ご承知かもしれませんが、カナダの育児支援法に学ぶことだと思います。

 この国ではなかなか難しい面もあると思いますが、4、5人の子どもの家庭がグループを作り、毎週日曜日にその日の当番のお宅に全員の子どもを預けます。当番でないお母(父)さんは、一日、子どもから離れ、家事以外のことで過ごす。もちろん、何をしてもいいのです。映画、カラオケ、美術鑑賞、いいですね。

 しかし、こんなことをいわれるかたも多くおられます。

 「家に来て(入って)もらうのは嫌だわ。狭いし、何をされるか分からないし、見せたくないものもあるわよ」と。

 しかし、子どもたちにとっては、とても楽しく刺激的なことなのですね。極端にいえば、自分の家庭以外に行けば、文化が違うのですね。まさにカルチャーショックを受けるのです。自分の家でできたことが、なぜ、人の家ではできないのか、と次々と疑問が出てくるのです。

 このような活動(育児支援)を繰り返していくことで、親はひととき子どもから解放され、子どもは他人と交わることで社会性を身につけていくのです。ゆたかになった時代の、一つの有効な育児方法であると思います。(ふじい・ゆういち)

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